網代漁業株式会社 ネクトン有限責任事業組合
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網代の漁業記録



昭和30年、古網漁場 魚獲部で鰤をすくい上げる乗組員

 網代村に残されている古文書のうち一番古いものとされるのは、岡田家所蔵の寛永15年「網代村年貢割付状」であるとされている。それより古い、江戸幕府以前の漁業についての記録は残されてはいないが、現在も行われている神社祭典などにより伝承されている話を以下に紹介する。
  中世期頃には釣漁としての漁法が開け、漁獲物を持って田方地方や多賀部落に出向き物々交換など、交易を行い生活していた。北条早雲が小田原に居を構える頃には、その支配下に属し物資の献上などを行い原始的漁村としての体制が整えられた。
  天正17年、豊臣秀吉は天下統一の直前に北条氏攻略のため全国の諸将兵を指揮して小田原城を包囲した。この小田原城攻めにあたり豊臣秀吉は、支城である相州厚木城の攻略を企て、海路より軍兵を送るため網代村に漁船50隻の調達を命じた。網代村では漁船30隻を用意し相模国の押切村に軍兵を送り、その任務を果たし感謝された。このときに用意した漁船は天当船以上の舟で、当時これだけの漁船を保有していた網代村は東伊豆地方最大の漁村であった。
  文禄4年、豊臣秀吉は検地条目を制定し全国の農地を検地し石高を定めた。このとき制定された範囲領域は徳川家康も継承し、漁村の領域も定められ、海石(海の手貢)の基準とした。この頃の東伊豆各浦々は小田原領、韮山代官支配で海の領域は村境より沖の見通し線と定められ海岸から9町、湾内は輪界(ワナカ)といわれ海岸から30町は自村の漁場と認められていた。それより沖は入会(イレアイ)といわれる共同の漁場となっていた。この入会の定めを「魚猟入会場国境之無差別」との記録があり封建制度社会においても公海上の共同使用と自由の原則は守られていた。
  寛永15年、網代村年貢割付状には豆州代官小林彦五郎重定から網代村名主、百姓に発せられた年貢の明細が記載されている。これには畑、屋敷年貢などからなる村高と漁業年貢である外浮役が割当られていたが、漁業を営む為の税である外浮役の網代村における内訳は以下のとおりであった。

  年貢記録は寛永から正保にかけての文書がいくつか現存しているが、村高(畑屋敷年貢)約40石に対し外浮役(漁業税)約60石以上の貢納割合であり、村全体の税収より漁業だけの税収の方が上回る傾向から網代が当時、純然たる漁村であった事がうかがえる。また漁業の内訳では鰯網役が全体の60%を占めている事から当時の漁業収益の主体は鰯漁であった。この鰯漁は小規模なすくい網であった可能性が高いが、これを発展させた漁法が棒受網であり「漁業の歴史」清水照著によれば正保年間(1644)に棒受網漁は網代で発祥したとある。この他にも相模湾沿岸漁村の記録(寛永~寛文年代)によれば網代村では手繰網、立網、平目網、こませ網、えび網、鯖釣、ウズワ釣などの記録がある。
  貞享、元禄年間前後の資料は元禄16年の大津波によりほとんど存在しない。漁業被害だけではなく家屋等の被害も甚大であった。この年、網代村では幕府から147両の借入を行い村の復興に当てた。
  網代村では漁業者の格式を重んじ網元である海士船持四拾二軒が一等漁業者として中心勢力となった。地元の漁業役(海石)定納鰯網役の貢納を負担することにより網漁業、釣漁業など多種多様な漁業を許可されていた。網漁業は古い順から棒受網、立網、鮪網、鰯網が順次操業された、文化年度からは根拵網が導入され網代の代表的漁業となった。この年代(寛永、享和、文化)には伊豆地方一帯に鮪の大群が来遊し、鮪を効率良く捕獲できる漁法が研究され、これが鮪網から根拵網への変遷理由であると思われる。
  根拵網は定置網であり最初は北陸系の台網であると言われている。加賀の藤七という商人が伝え、文化元年頃、伊豆山に張立てられたのが伊豆地方で最初と言われている。網代村誌によれば文化年代、大網の経営者であった岡田権六が、伊豆山に新規に張立てられた台網を模して地先(町場前)に網を張立てたのが網代での根拵網の発祥であると伝えられている。後にこの漁場は古網場と呼ばれ、伊豆東海岸の名漁場と称され現在に至っている。
  根拵網の名前の由来は、土地の人々の言葉で「根こんざい網」と呼ばれていた事に関係する。魚を根こそぎ獲るという意味で、それまで使用していた立網、鮪網と異なり一定の海域に土俵により固定し昼夜の区別なく漁獲作業が可能で、大漁の時期には継続して押寄せる魚群を能率的に漁獲可能であることから付けられた名前である。
  大都市となった江戸の食料需要増加により海産物を江戸魚河岸に送る商人もこの頃出現した。伊東の和田村では浜株という五十集(イサバ)仲間の組合が生まれ当時これを散場(チラシバ)と呼んでいた。網代でも同様の仲間が組織された。日本橋魚河岸の問屋筋は房州、相州、伊豆方面の各地から多種多様な魚類を多数集荷するため各問屋競って漁村に得意先を作った。また漁業者に対して漁業資金の貸付を行い漁獲物の全量出荷の義務を取り付けた。今でも古い漁業家にはこの種の借用証書が残されている。
  網代の漁業は江戸末期から明治にかけて体制の変化が生じた。網所持役四十二軒の有力者達の中にも、やがて淘汰される者、小前の漁師から船持になる者などが現れる。この頃の漁業経営形態は大別して三種類に分類され一つは網を使用した漁船漁業、主には棒受網、鰯網など、二つ目は釣による漁船漁業、三つ目は定置網漁業である。このなかで地利地勢に適し発達したのが定置網漁業である。
  明治年代に入ると政府は離税廃止の制度を定め、海石米上納の必要はなくなったが同時に地先海面の権利をめぐる問題も表面化した。明治5年には赤根漁場を巡り上多賀村と紛争がおこり訴訟となったが明治8年に足柄県の指示に従い調停に至った。明治30年にも熱海村、多賀村、網代村との間に漁業権をめぐる紛争が生じ、伊東村長大原担、宇佐美村長佐々木儀三郎の仲裁により和解し漁場契約書が作成された。
  当時定置網の経営は、その地先に権利を保有する村落に経営者が賃貸料を支払い経営する慣わしであり、その漁場料は村の貴重な財源として利用された。定置網の漁場がどこの村落に帰属するのかということは村の財政上大きな問題であった。明治12年の古網場の漁場料金は2.000円であり、それを学校運営基金とし、利子所得は学校運営費に充当されるなどその功績は大きい。
  明治35年に「漁業法」が施行され網代にも漁業組合が組織された。網代村と定置網の漁業権をめぐり対立し、村の平和を乱す基となったが田方郡長鈴木七二郎の仲裁で和解した。当時漁業賃貸料は村費を賄う重要な財源であったので従来どおり賃貸料は村に納入され剰余金は漁業奨励金として漁民で分配することとなった。
  明治43年に古網漁場は鰤大敷網に改良され、翌44年には赤石漁場も同様に改良された。当時の経営主は平井正之助であった。以後、網代における定置網の進歩発展は古網、赤石の両漁場において実現され、経営者の変遷とともに現代に至っている。

外浮役(漁業、船税) 岡田文書
廻船役米 8石6斗7升9合
天当船役米 5石9斗7升5合
小廻船役米 4石9升
定納鰯網役米 35石6斗5升
定納子取役米 7石1斗5升
定納水乞役米 5石1斗
釣十分一永 4貫152
網代の定置網漁場



古網漁場  文化文政年間(1804~1830) 起業
昭和30年代、古網漁場 箱網奥で鰤をすくい上げる乗組員

岡田権六が伊豆山に新規に張立てられた台網を模して、地先(町場前)に張立てたといわれる根拵網で古網場と呼ばれた漁場である。鰤大敷網への改良は明治43年12月に経営者平井正之助により行われた。当時の先進地であった土佐国から10人ほど漁業者を招いて指導員とし張立てから網起しまで直接指導を受けた。鰤大敷網導入後の年明け3月から鰤の大漁が続き、以来好成績をおさめた。
  大正3年頃には日高式大謀網を導入し従来の大敷網の弱点を補い同時に大型化を図った。側の全長が200間、幅70間で10隻の網越し船と総勢120人の漁夫により操業される巨大な施設であった。
  昭和年代に入ると鰤を主な対象として定置網漁業を行ってきた漁場では漁獲量が徐々に減少していき大規模な施設と多くの漁夫を温存するには困難となった。昭和10年頃には魚類来遊量の減少を補う落し網が考案された。箱網だけを操業する省経費で、魚の残存率も格段に向上させたものであった。さらに昭和22年頃には二重落網が考案されいずれもいち早く取り入れ実行した。
  毎年大漁を続ける古網漁場は伊豆東海岸随一といわれる名漁場となり、経営者や従業員は経済的に潤った。
  網代村には毎年、古網経営者から巨額の賃貸料が納入され村の経済を支えた。その結果、村では大正元年から大正12年頃まで戸数割賦課金は皆無で、さらに余裕金は公共施設の整備にも当てられた。
  古網漁場は旧漁業法下では他の漁業権と同様に網代村に免許が与えられていた。県の免許は大体20年間となっていたが都合上5ヵ年間1期として経営者に貸与していた。弘化3年には平井金三郎他49名により経営され、その後は鰯網持、立網持、商人仲間などの手によって経営され長い年代にわたって継続されてきた。鰤大敷網以降の漁場経営者の変遷は以下のとおり


昭和30年代 古網漁場 鰤の大漁を視察する株主や仲買人

経営者 経営年次
平井正之助 明治43年
平井正之助 大正2年~大正7年
堤商会 大正7年~大正12
平井正之助 大正12年~昭和3年
平正、内田組、共同 昭和3年~昭和9年
辻井五郎 昭和9年~昭和14年
細谷重作 昭和14年~昭和19年
網代大網組合 昭和19年~昭和40年
網代漁協自営部 昭和40年~昭和 42年
網代漁業株式会社 昭和42年~


赤石漁場  嘉永5年(1852)起業

  古網と共に網代の有力な漁場で嘉永5年に新吉と仲間数人で起業し、後に又蔵が津元となり同志11名と共同して経営してきた。代表者や人数が替わっても経営は引き継がれてきた。明治25年の県の記録によれば、網代には四艘張網、古網、赤根、赤石の根拵網が存在した事を伝えている。明治44年に平井正之助が古網に次いで大敷網へ規模拡大し、大正3年には大謀網に改良し網代2大漁場の実績を作った。昭和初期に淡中幸八郎が位置変更を申請し、廃業となっていた網代崎漁場寄りに移動し新しく漁場を定めた。当時はこれを新赤石漁場とよんでいたが現在では昔どおり赤石漁場と通称している。当時の春網は新赤石漁場に大型の大謀網を張立て、秋網は縮小して小型の網を元の赤石の場所に設置していた。昭和14年には古網漁場に次いで落網に改良され実績をあげた。赤石漁場が有名になったのは昭和初期、淡中漁業部経営当時の鮪の大漁からである。
(画像は、網代港岸壁にて鰤を荷揚げする従業員)


経営者 経営年次
平井正之助 明治44年~大正4年
大橋伝左ェ門 大正4年~大正9年
堤商会 大正9年~大正14年
淡中幸八郎 大正14年~昭和10年
網代大網組合 昭和11年~昭和40年
網代漁協自営部 昭和40年~昭和42年
網代漁業株式会社 昭和42年~

By admin 2010年6月21日